もくじ
Suzan Harper
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Emilie Conrad
Gael Ohlgren
「動き」 by エマリー・コンラッド(創始者)
- 科学は、私達の世界はみな動いているという。私達が止まっていると思っているもの
は、目では認識できないやり方で、みな動いている。岩、山はみな、様々なリズムや周波数で動いているのである。
- 伝統的に、動きというものには、始まりと終わりがあると考えられてきた。また、動きとは何か特定の活動、例えば、歩く、走る、頭をかくなどだととらえられている。こうした動きをやめるとき、私達は「じっとしていて」「動いていない」のである。
- 私は、「からだ」を含意する機能的動きと、生物学的動きとを区別している。生物学的動きにおいて、からだは対象物として明示されておらず、特定のかたちにも限定されていない。この意味において、動きとは私たちがすることではなく、私達そのものなのだと言うことができる。
- 若い頃私は、何年もハイチで過ごし、ハイチの民族舞踊のグループで、振付師とリードダンサーとして過ごす機会に恵まれた。地球の中から湧き起こってくるような、古代のヘビのような動きに没頭していったとき、私は深い霊感を得た。地球からダン
サー達の足と背骨を通して伝えられたメッセージは、見たことのない宇宙の力の脈動を持って、波のようにうねりあがった。それは、全ての形あるものの始まりを匂わせる動きだった。原始の風、古代の地球の匂いが、二度と忘れることのできない芳香と共に、私の中に入った。
- 1967年、ハイチでの経験にまだ動かされたまま、私は、後にコンティニュアムと呼ばれる動きの探究を始めた。私は以下のような問いを探究し始めた。生きている存在として、私達はもっと直接的に、生命の形成的な面に関わることはできるだろうか? 知性ある存在として、私達は文化の中にいて、文化に縛られずに生きることはできるだろうか? 私達の有機的生命体は、人格の関心事や心配事とは別の宿命を持っているのだろうか?
- 私たちが普段「からだ」というとき意味するのは、安定化された動きを指す。生まれたての赤ん坊を見る時、私たちは肉体になった水の動きを見ている。液体のシステムが、地球上の波動の領域に出会い、エレガントな両者の交流が起こる。洗練された液体のシステムが新しい環境になじもうとする時、安定化が徐々に起こる。液体は環境を理解し、目は焦点を合わせ、様々な実験が行われる。赤ん坊は転がったり、押したり引いたり失敗を繰り返す。そして、地球上で生きていくための最良の動きの連続を見つけようとしているのである。
- 安定化の自然な質として、液体システムの合体が促進される。地上で機能していくために必要なサポートが作られるのだ。液体は新しい要求にこたえるために、固まっていく。地上で生きていく必要に即時に応えるため、私達の中の海の記憶は忘れられていく。私達に内在する環境の原初的な特徴以外は、全て忘れられる。
- 私達は、這うこと、歩くこと、サバンナや山や街、宇宙の中を進むことを身に付けた。この安定化した人間と呼ばれる生き物は、どんな存在なのだろう?答えを知ることはできるのだろうか?
- 私達のからだの中にある液体的存在は、私達の根源的な環境なのだ。私達は陸に上がった、動く水なのだ。
- 子宮の中で、羊水と胎児は互いの間に全く分離のない天体に存在している。私達の初期の存在は、包括的だ。胎児は地球上の進化のプロセスを要約してたどる。私達は全ての形、全ての可能性をもっている。かぎつめ、ひれ、手は、全て生物の形のプランの青写真なのだ。化学的暗号が、私達が口吻を持つか鼻を持つかを決定する。人間の指の間の水かき、硬膜、食道、脳の怪しい原生動物的なカーブ、水の中に浮かび拍動する内臓、こうしたもの全ては、我々が存在する以前の太古の世界の名残であり、我々の中で様々な波形のメッセージを通して共振している。
- 人間としての我々は、海洋的起源によって形づくられた多くの生物の蓄積として存在している。そうした生物の形は、我々の内臓、結合組織、神経線維などとして、我々の中で拍動し続けている。我々は、気の遠くなるほど長い年月をかけた、終わりのない実験の途中の過程なのだ。我々の形状は何度も設計され、また設計しなおされ、どこまでも適応性があり、革新的なのだ。
- 全ての形は一時的である。その形の消滅、あるいは変更の必要性は、形の中に内在している。動きにおいて、そこには対象物はない。あるのは駆り立てられるのを待っている、肥沃な可能性だけである。対象物を明確にしたり、「からだ」というような境界線を作ることで、我々は限界を作ってしまう。効率よく生き残るために、我々は安定化しなければならず、ある意味「世界を止め」なければならない。我々は生き残るために、自分自身という存在を明確にする必要がある。空腹の時、食べ物を入れるのは、他人の口ではなく私の口だとわかっていなければならない。生き残るための能力
は、この私という境界のある状態を明らかにする必要があるようだ。我々は自分を取り巻く環境の中でうまく生きることができ、明日を迎えるために必要なことをすることができる。しかし、それが私達という存在の全てではない。我々は同時に、神聖で複雑な知性の流れるような表現形なのだ。その神聖で複雑な知性が、どんな目的で我々を形づくったのかは知ることはできないかもしれないが。
- 安定化は、効率のためにはきわめて重要だが、新しい可能性という情報に接していないと、硬直してしまう。からだのアイデンティティーを、私達を唯一指し示す形として持ち続けると、生物的システムとしての私達は広がりのベクトルを狭めてしまう。安定化が進むと、適応能力が危うくなる。幼児が自然に早く治癒するのは、彼らが「流動的」だから、変わり易く比較的開かれたシステムをもっているからだ。我々が、からだの現実という想定の犠牲者になるにつれて、治癒は困難なプロセスになる。私達は一つの考えに縛られず、より包括的であれる。私達は、私達に純粋な情報と栄養をもたらす「流動性」から学ぶことができる。流動性は、私たちが自分自身の考えの境界線に制限されることなく、よりよく生きる助けになってくれる。
- 1974年に、私は脊髄損傷に関する実験をすることを決意した。私は「もし私達自身が動きならば、麻痺とは何なのだろう?」と思ったのだ。おそらく医学的雛型は更新される必要があるだろう。おそらく、麻痺とは雛型の中にあって、脊椎の中にあるものではないのかもしれない。もし私達を、本来動きである、ダイナミックでエネルギッシュなシステムだと認識するならば、麻痺には機能的な制限はあるが、動きの制限はないのだと言えるのではないだろうか。私が発見してきたことは、動きは新しい機能を切り開くことができるということだ。
- 動き、そしてその欠如は、私達がどのように呼吸しているかということに直接関わっている。トラウマが起こる時、呼吸はたいがい一時的に止まり、それにしたがって動きも止まる。ショックはそれに伴う感情的固定によって、麻痺の一因となる。脊椎のショックは時に弱まっていくが、感情的ショックは何年も続くことがある。
- 脊髄損傷のように大きな身体的制限のある人とワークする時、私は様々な呼吸から始める。呼吸は、私達の液体システムを作動させ、新たな、本来備わっている相互作用をもたらす。そこには生命の拍動がはっきりと表れてくる。多様で豊かな呼吸に刺激されて、複雑な本質的動きは、一度は凍って反応しないように見えた場所に暖かさと流れをもたらす。
- 麻痺のケースにおける脊椎の動きを精妙にしていく案は、いまだかつて作られたことがない。私は、胎生学的モデルを使うことによって、脳脊髄の核の部分に動きを起こそうとする。本質的に内在する動きが豊かになるにしたがって、神経系の豊かな基盤が作られ、新しい神経の通り道が芽吹き始める。私は、人間が新しいことを切り拓く能力は、私達の生物的核の中にあると信じている。命の潮流が目に見えてはっきりしてきて、硬直状態が形を自由に変える遊びに溶けていくにしたがって、損傷の度合いが緩やかに低くなり、ついには歩行の動きが可能になる。
- 私が常に懸念してきたのは、私達が巧妙なやり方で自分を制限し、また様々な全ての文化が、知りえることの限界を決めてしまうことだった。特に西洋文化は、破壊的影響とともに、からだの工業化といえるものをもたらし、からだを疎遠なものにしてしまった。西洋人は、機械的に繰り返す動きは、好ましいものと受け止めている。そしてこの機械化は、私達がどのように生き、どのようにこの世界を描写するかの中心に存在している。この事実は、水の動きから形づくられた、生き生きと流れる人間というプロセスに、何か関係があるだろうか?
- 長年コンティニュアムを教える中で、特定の癒しのプロセスに関わっていても、私達が自分に加える制限に関わっていても、私の関心は常に、根元的な地球上の生命のモティーフ、つまり環境としての有機生命体と、より大きく関わるところへ私達を持っていくことだった。
- 私達一人一人が、より液体的で共鳴的になり、防御態勢が使い古した肉体を脱ぎ捨てるように消えていくと、そこにはより大きな調和が生まれる。その調和の中では、細胞と液体のレベルでのコミュニケーションが、非常に高まっている。
- 私達はプロセスであり、陸上の生物であり、またそれ以上の存在である。我々と地球の関係は、我々の液体システムと、人間とその他全ての液体システムとの共鳴によって維持されている。
- 創造的「流動性」は、私達の機能を高めるために不可欠なものだ。「流動性」の中では、「部分」を見つけることはできない。この「流動性」は、私達の存在に関する統一されたまとまりであり、地球と共鳴するコードを作る。それは、私達が文化的存在としてより、生物学的システムとして機能する力を与えてくれる。全ての区別は、流れるような多様性の中に溶けていく。神聖なる表現の母体の中に。この流動性の中には、我々の思考を超えた知性と強さが備わっているようだ。私が言える限りでは、我々の新しいものを生み出す力は、全てが液体になるまで形を柔らかくしていく中に
ある。
- 私達は開かれたシステムであり、変化の即時性に反応できる。私達の「からだ」の概念は、変わりつつある。境界のある形としてだけ自分を認識するのではなく、私たち自身の存在そのものの水の中に、予約も計画もなしに入ることができる。私達は、常に開き続けている生命のプロセスなのだ。我々の住む宇宙は、常に情報と栄養をやりとりしている。私はこのことを、地球上の人間の基本的行動の中に見るし、地球を越えたところにもおそらく見ている。血液、川、海、脳脊髄液、全ての液体は共鳴している。境界線のない一つの調和として。
- 私達の生物形の起源は、私達に直接その存在を示し、個人的に情報を与えてくる。神はどこかにいるのではなく、私たち自身の、形を作る傾向の動きそのものの中にいる。形を変える遊びを通して、常にその存在を現しながら・・・。コンティニュアム・・・。
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