好奇心と遊び心 by ゲイル・オルグレン
(2005年10月16日に日本で開催されたワークショップで話された内容)
(文中の日付と数字は編集のためのもので、ワークショップの内容とは関係ありません。)
- 私はもうすぐ60歳になるので、このことについて話してもいい時だと思いますが、東京の地下鉄で人々が歩いているのを見ると、いくつ年を重ねたかということだけではなくて、人生の歩み方というものをも見ることができると思います。その方々が、感覚とか環境に対して、どういうふうに興味を持って生きてきたか、どういうふうにOPENであるかということも見ることができるかもしれません。または適応性とか、弾力性とか。
- 子供を見ると、いつも体に対して実験していますね。こんなふうに。自分が誰かということなんか気にしないし、わかってないし、周りの人からどういうふうに見えてるかとかなんていうことも気にしてないし、ティーンエージャーぐらいになると、態度とか、社会に対してなにを見せたいかというところにもこだわってきますね。こういうふうに・・・。こんな感じかもしれないですけど・・・。でも、社会に対してどういうふうに表現していきたいかというところがありつつも、動きに対してバラエティがあったりします。
- 年を取るにつれて、私たちがすることに対して、決まってきてしまいがちです。うまくできることは毎日毎日それを繰り返していく。疲れている感じがあるので、あんまり遊びたいという欲求がないとか。固まったもの、固定したものという観念が生まれてきます。なので、動きのパターンが変わらなくなってしまいます。可能性の限られた物になってしまいます。感覚との関わりに対して、あまり実感がともなわないというか、あまりそこにいられないという状態になってしまいます。(2108)新しさを持って、周りの環境に接することができなくなってしまいます。
- 新しさを持って、周りの環境に接することができなくなってしまう。新しさを持って、周りのことを聞くことができなくなってしまう。新しさを持って、体を感じることができなくなってしまう。
- 私たちは世界を知っているんだという感覚におちいってしまう。新しさをもたらす経験に対して、それが今まで知っているファイル(知識)にぱっとしまわれてしまう。
- 例えばイタリアのベニスが日本に突然できあがったとしたら、もし、朝起きてそれがそこにあったら、みんなびっくりしますよね。船は違うし、ビルは違うし、言葉も違うし、人々の動きも違うし。でも、それと同時に「ボートなんか見たことあるよ」って言うこともできるかもしれません。「川も見たことあるよ」「ビルなんか知ってるよ。ただ、ちょっと増えただけだよ」。ただ自分の頭の中のファイルにしまわれていくわけですね。アメリカ人の裕福な方々の中には世界を旅した人もいますが、でもいつもどこでも同じハイアットホテルに泊まって、いつもアメリカで取ってるのと同じ食事が取れて、美術館に行って、ダンスのショーを見たりするかもしれないけど、でも新しさは経験してるかもしれないけど、居心地の悪さは避けています。なので、本当に新しいことというのは彼らには起こりえません。
- 世界に対して感覚を閉じてしまって、交流をやめてしまったら、体も閉じてしまいます(2438)。私たちが弾力的な適応力をなくしていくということで、未知の物を受け入れるということができなくなってきますし、私たちが、興味とか遊び心をなくしてしまうと、体の中に結晶化されてしまいます。それは、ある人の肋骨を触ってみるとわかることがありますが、肋骨が固定されて、固まってしまってる、こういう形で固まってるかもしれないし、こんな形で固まってるかもしれないし、肋骨同士とか、肋骨とか胸骨とか背骨とかの可動性を失ってしまっています。
- 昨日呼吸で始めた理由の一つというのは、呼吸がバラエティを失って、パターン化されていくうちに、肋骨が固定されてしまうので、それにともなって組織もしれに伴ってしまう。組織が密度が濃くなって堅くなってしまう。赤ちゃんの組織の質を考えてみるとわかると思いますが、(2740)体がとても統合性がとれていたりとか、やわらかかったりすることに気がつきます。私たちの文化では筋肉を固くするということをしますよね。ジムに行くと、エクササイズをすることで、筋肉がもっと固く、もっと凝縮するようにしてしまいます。
- (続く・・・)